生活レポート |
「母の日」に 初めての感謝を記す |
更新日:2014年10月19日 |
私は、今まで母に何かと世話になりっ放しで、心の内で感謝しつつも、改まって面と向かって、感謝の言葉を口にしたことは有りませんでした。 |
ニ−ハオ!ようこそ~チャイナエイトへ~!
文化大革命の直前地方の農村で、母は姉兄弟妹に挟まれた真中の5人兄弟姉妹の一人として生まれました。
当時の中国は都市部も含め全土が貧しい時代でした。
その中でも、農村は極端な貧しさでした。
小学生時代の年令が文化大革命の大混乱の10年間と重なり、学校そのものがまともに開かれていなかったことと、貧乏であったが故に、小学校も満足に卒業していません。
当時、この年代の多くの人々がこの様な状況でした。
母は18・9歳頃、家から離れ現金収入を求め村から出て桂林市内の工場で、レンガ運びの仕事に就きました。
その時期に、工場の職員であった父と出会い結婚しました。
私は、改革開放経済が始まった3・4年後に、一人息子として生まれました。
当時の社会主義中国は、改革開放が始まっていたと言え、それは南方の限られた経済特区で試みられいたにすぎず、全国的に恩恵を受けられるには程遠いものでした。
地方の小さな工場での福祉は不十分で、乳呑み児を抱えての工場仕事は続けられませんでした。
それで、幼い私を伴ってもできる露店での果物売りの仕事を始めました。
果物売りの仕事はとても朝が早く、午前3時に起き卸市場へ行かないと、他の人に良い商品(果物)を取られてしまい、余り良くない中から選ばないといけないことになってしまいます。
その頃の母の睡眠時間は4・5時間ぐらいで、夜も遅くまで働いていました。
私が成長し働きだしてからは、家の負担も少し軽くなり、販売量を減らし昼過ぎには売り切るようにして、仕事を切り上げ家に戻るようになりました。
父は1989年、友達と桂林で山水画を大量に仕入れ、北京へ売りに行きました。
しかし、天安門事件に遭遇し、全く売れず大損しました。
結局、2年間ほど掛って、母が果物売りを頑張り、その借金を返済しました。
父はその後、やる気を無くし数年間に渡り仕事をせず、時々母の手伝いをする生活を続けていました。
果物売りを続けながら、私を育て学校に通う私の世話をし、父が店番を替った時に家へ戻り料理を作りと、フル回転の働き詰めでした。
母は我が家の大黒柱でもありました。
子供の頃、近所の友が自転車を買って貰い乗り回していました。
私も欲しく、母にねだりました。しかし、母は買ってくれず、怒った私はご飯を食べず、宿題もやらずと拗ねていました。
父がこのことを知り、母と喧嘩し、母を殴りました。私は傍で、ただ泣いていました……
少し大きくなると、その時の家の経済は、とても厳しい状態であっただろうと容易に理解できます。
少年時代の、今も胸の中にトゲのように残る思い出です。
母は、身長160センチで、少し太りぎみの大柄な体格です。年令は50歳です。
約30年続けている果物売りを、今も元気に商っています。
働き続けて私を育ててくれた母も、髪に白いものが少し混じるようになってきました。
母は無欲な人間で、お金・服装・食べ物に執着しません。
その母にも、一つのささやかな夢があります。
それは、一生で一度、首都北京へ行き、天安門広場と万里の長城に立ちたいとの望みです。
我が家の太陽である母の、このささやかな夢は、近い将来きっと適えて上げたいと考えています。
お母さん、 家族のために長い間一生懸命働いてくれてありがとう。
これからも元気に長生きして下さい。 謝謝! 息子より
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