【永寧門(南城門)】
南城壁の中部に位置しています。元代は隋唐長安皇城の「安門」で、唐代末期に皇城新城を建設した時に保留された。明代洪武7年から11年まで(1374年から1378年まで)、西安府城を拡張した時も、この門は南門として使われて、隋唐時代に作られた「梁式三門洞」を煉瓦積みアーチ式の単一門洞に改築した。その後、清代、民国、これまで、そのままで踏襲されて来た。民国元年6月(1912年)、陝西都督張鳳翙はこの門に「永寧門」を書きました。
「永寧門」は、明代の「門三重楼三重」の形を完全に保持しています。
「永寧門閘門楼」は、明代崇禎九年(1636年)に建てられ、明代崇禎十六年(1643年)、李自成軍の西安攻撃で、打ちひしがれた。清代順治13年(1656年)、陝西巡撫陳極新は再建を主宰した。民国初年、「水門楼」は、解体され、「月城」、「つり橋」も破壊され尽くした。1990年9月に、「月城」、「閘門楼」及び「つり橋」は再建された。
「永寧門箭楼(矢楼)」は、明代洪武11年(1378年)に建てられ、民国15年(1926年)、西安を鎮嵩軍が包囲した時、戦火に敗れた。2014年4月に、再建された。
「永寧門正楼」は、五代、宋代、金代、元代など各時期を経て、明洪武の11年(1378年)は統一的な形で再建された。その後、明嘉靖五年(1526年)と清代、民国、共和国を経て、何度も修理されてきた。
【朱雀門】
「朱雀門」は、唐代皇城の正南門で、四象の中の「朱雀」は南方を代表しています。門下は唐長安城の中軸線にある「朱雀大街」です。隋唐の時、皇帝はいつもここで祝典活動を行いました。
唐代貞観三年(629年)、玄奘は真経を求め、長安から出て、涼州を離れ、玉門関を経由してシルクロードに沿って一人で西に向かって歩いたが、途中でいろいろな困難を経験した結果、4年をかけて、数十国を越えて、やっと天竺(今のインド)の「爛陀寺」に着きました。唐代貞観19年(645年)、玄奘は経を取って、657本の梵文仏典を長安に持ち帰りました。玄奘を迎えた唐太宗の宰相は、唐皇城正門の「朱雀門」で歓迎式を行いました。「朱雀門」は5つの門道で、古代の都城門の最高等級として、同じ5つの門道の「丹鳳門」、「明徳門」と一緒に「隋唐長安城皇城」、「大明宮宮城」、「長安城正門」を構成しました。
「朱雀門」は「永寧門」の西に位置し、1985年に城壁を修理した時、隋唐朱雀門遺跡が発見されました。
【含光門】
「含光門」は1400年以上の歴史もあり、最初の「隋唐長安城皇城」南壁の西にある城門です。隋代開皇二年(西暦582年)、宇文凱、賀婁子という二人のデザイナーの綿密な設計を経て、建てられた84平方キロの「大興城皇城」側にある「含光門」も建てられた。
唐代には、「含光門」内は「含光門大街」とつながって、北にある「皇宮城」に直通していた。「含光門大街(各国来訪使節通行専用)」の東側に、外交、民族事務専門管理部門の「鴻臚寺」と「鴻臚客館(国賓館相当)」がありました。唐代国際使節の皇城に入る必経の扉は、「含光門」と命名された。シルクロードの商人も含光門を通じて西市に入りました。
「隋唐含光門」内の西北側に「隋唐長安社稷壇」です。「社稷壇」は「大社」、「太社」とも呼ばれ、歴代の帝王が「土神」と「谷神」を祭った祭壇の所在で、王朝政権のシンボルと代名詞です。
唐代末期天佑元年(西暦904年)、朱全忠が唐昭宗を洛陽に移転した後、間もなく唐代の首都長安城は、廃墟となり、北宮城が取り壊され、皇城だけが保留された。五代、長安新城の周りには、5つの門を開けました。宋代、「含光門」の西と中門道は、閉鎖され、東門道だけが通路として残された。元代、「含光門」は閉鎖された。明、清代に何度も西安城壁改築によって、「唐代含光門」は、城壁の中に包まれた。その遺跡は今も保存されています。2008年に唐含光門遺跡に「西安唐城壁含光門遺跡博物館」を建てました。
【安定門(西城門)】
「安定門」は、「隋唐長安皇城」西側の中門「順義門」で、唐代末期に韓建が新城を建設した時に保留された。明代洪武7年から11年まで(1374年から1378年まで)、「西安府城」拡張期に、この門は「西門」として使われたが、「隋唐時代梁式三門洞」を煉瓦積み上げ式の単一門洞に改築され、位置もやや南に移動された。そして、「甕城」が建てられ、それぞれ「内城」、「甕城」には「正楼」、「箭楼(矢楼)」という二重が建てられた。明代崇禎九年(1636年)、陝西巡撫孫伝庭は「瓮城」の外に「月城」を建て、「月城」に「門楼」を建て、堀を渡る固定橋を「つり橋」に変えました。
民国初年、堀に橋を架けたため、「水門楼」と「つり橋」、「月城」は、取り壊された。
【安遠門(北城門)】
「安遠門」は西安城壁の正北門で、明代に建造された。辛亥革命の時、蜂起軍が「満城の戦」で北門城楼を攻撃した時、「安遠門」は焼却されました。今は完全な矢楼があります。「安遠門」は西安明代城壁の北城門で、北城壁の中部の西に位置しています。ここはもともと唐長安城太極宮と東宮の境にある宮壁の中段でした。城門は唐代末に韓建が皇城を新城に改築した時に北城壁の外に置かれました。門の下にアーチ型の門の穴が開けて、通長は30.8メートルです。
清王朝の時期に、西安城壁内の東北地区は、北城門とする「安遠門」から東城門とする「長楽門」まで、「満城」と画定された。辛亥革命後、陝西都督張鳳翔が「満城」を解体した。
【長楽門(東城門)】
「長楽門」は、東城壁の中部の南に位置しています。明代洪武7年から11年まで(1374年から1378年まで)、西安府城を拡張した時に、「長楽門」は新築された。明代洪武年間初期、門の外には甕城が建てられ、それぞれ内城、甕城には正楼、「箭楼(矢楼)」の二重が建てられた。
明代崇禎九年(1636年)、陝西巡撫孫伝庭は瓮城の外に月城を建て、月城に門楼を建て、元の堀の固定橋をつり橋に変えました。
明代崇禎十六年(1643年)、李自成蜂起軍が西安を攻撃した時、「長楽門」正楼を焼き払いました。その後、清代順治の時期に再建された。
民国初年、堀に橋を架けたため、その「水門楼」と「つり橋」、「月城」を取り壊した。
【関中書院】
明代と清代の陝西最高学府で、全国四大有名書院の一つで、西北の四書院のトップです。明代労働部尚書の馮従吾が陝西省の当時の最高行政長官の汪可と一緒に「聯袂会講」を行いました。授業を受ける人は数千人に達しました。これで、長安府長官は、「関中書院」を建設するように命じました。その後、東に向かってまた続々と長安県学、西安府学と文廟(今の碑林の所在地)を建設し、文化の街を形成しました。関中書院ができてから間もなく、魏忠賢は東林書院を滅ぼし、関中書院も被害を受けました。明宗の時、関中書院は取り壊された。康煕三年まで、関中書院は再建されました。光緒時、陝西省師範大学堂に改築され、当時の西北5省の最高学府となった。
【碑林博物館】
西安碑林は、西暦紀元1087年に創建され、中国古代碑石の収集時間が一番早く、品数が一番多い博物館です。
陳列には漢代から清代まで各時代の碑石、墓誌が千余りあります。石碑が林のようで,「碑林」という。
西安碑林は内容が豊富で、中国の古代書道芸術の宝庫であると同時に、古代文献典籍と石刻図案を集め、歴史文化発展の成果を記述し、中外文化交流史実を反映して、国内外に名を知られています。