田子坊 - 基本情報|中国旅行のチャイナエイト
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観光地レポート プリント
田子坊
更新日:2015年04月09日

 瑞金路から泰康路を曲がり、横町をいくつか越えて田子坊横町の入り口に到着。周辺の町並みと変わりのない、下町の雰囲気が満ちている。だが一歩踏み込れると古びたアパートのしたをくぐれば、小さなお店がずらりと並び、国際色豊かな人々が細かい路地を肩と肩が触れ合うばかりに行き交うい、写真を取り、コーヒーを飲んでいる。これこそ上海最先端スポット、田子坊の風景だ。

 様々な肌の人たちが細い路地を肩と肩が触れ合わんばかりに行き交い、写真を撮り、コーヒーを飲んでいる。これこそが田子坊の風景だ。
 【歴史】
 田子坊という名前はつい7,8年前につけられた。この場所にあって陳逸飛のアトリエに画家の黄永玉がやってきたとき、どうせならこの陳逸飛がいる弄堂に雅号をつけよう、と思い立ったのだ。古代中国に最長寿画家といわれた田子方という人物がいた。町の区画名に使われることが多い「坊」の字と田子方の「方」を入れ替えて「田子坊」にし、芸術家が集うこの弄堂の名前にしたのである。
 1998年までここは単なる古い弄堂と廃工場と、何の変哲もない路地だった。この泰康路という路地の唯一の特徴は路上野菜市場があり、周辺住民に新鮮な野菜を提供していたことくらいで、1930年代に建てられた弄堂内では上海食品工業機械廠、上海鐘塑配件廠などの工場がまだ稼動していた。改めて「弄堂」とは何か、を説明させてもらいたい。いわゆる、弄堂とは、里弄(路地・横町)の上海での俗称で上海人だけでなく、江南地方でも里弄を弄堂と呼ぶのだが上海弄堂のみが北京胡堂のように有名になっただけである。
 2002年ごろ、各地各方面から所謂クリエーターたちが210弄内の旧工場に集まり、SOHOを立ち上げるといつしか周囲住宅地にまでエリアがどんどん広がって、ふと気が付けば旧工場はロフトアパートに、周辺の石庫門住宅の一階は様々な店舗へと様変わりしていた。そして田子坊はまでる本当の街区のようになっていた。
 田子坊の発展には明確なプランなど一切無く、境界線はどこまでなのか、誰も知らない。毎日のように新しいお店がオープンし、その裏で、ひっそり閉店する店。要は常にそして今このときも、拡張し続けている。
 有名写真家であり文化人の爾冬強の活動拠点でもある漢源カフェは田子坊のメインストリートにあるので、探しやすい。オペラやジャズ、ピアノのライブやジャンルを問わない写真展、板画展など多?に渡るイベントがしばしば開かれ、多くのアーティストが集う。田子坊で飛び交うのは英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、日本語、そして中国語。実にインターナショナルだ。
 【建物】
 新天地に比べれば田子坊の雰囲気は非常に庶民的だ。田子坊の醍醐味をしっかりと感じたいという人は一番分かりやすい210弄の路地へ行ってみよう。この路地から更に何本かの細かい路地へと行くことが出来、まさに田子坊が持つ弄堂文化の真髄を味わうことが出来るはずだ。
 弄堂は決して単純なものではない。建築様式に基づいて旧式石庫門弄堂や新式石庫門弄堂、新式里弄、花園式弄堂などに分別されているとは言えそもそもが建築様式が統一されている弄堂など殆ど無かったのだ。或いは建ったばかりの頃は様式は統一していても、拡張を続けるうちに石庫門弄堂に平屋や新式の建造物が登場、もしくは庭園つきの洋館などが建てられたのかもしれない。このような時間と空間が生み出した変遷は田子坊の中に全て見つけることが可能だ。
 弄堂はくもの巣の様なものだ。広い敷地内に整然と建っているものは殆どない。弄堂が面白いのは細い横道に入り、この先は行き止りだと思いつつも歩みを進めれば更に曲がり角や小さな門がり、その先に思いも寄らないほど開けた視界が広がっていることがある。上海の小弄堂の中には「支弄堂」ならぬ「死弄堂」になっているものも存在する。田子坊の中にも弄堂生鮮市場と曲がりくねった先にある寂れた支弄堂がひっそりと息づいている。