上海音楽庁は延安東路523号にあります。コンサートホール周辺は静かだ。ホール正面と金陵中路の間には広々とした広場があり、左右後方は美しい緑地と公園が広がっている。遊歩道に所々置かれたベンチに座り、澄んだ空気の中を聞こえてくる音楽に身をゆだねる。日々の喧騒を忘れさせる、そんな優雅な光景は少し前には想像もできなかったろう。大移動されるまで、ホールの前はまぶしいネオンサインとハリウッド映画の広告がでかでかと貼られた雑多な雰囲気に包まれていたのだがら。
【歴史】
1895年にパリで世界初の映画が放映された翌年、上海徐園にある「又一村」で「西洋影劇」と題して映画が中国初上映された。1908年、A.ラモスという外国人が虹口区海寧路と乍浦路の交差点角に250人収容の虹口シアターという映画館を設立し、上海に正式映画を持ち込んだ。統計によると、1920年代に中期の時点で、中国全土に156軒の映画館があり、うち上海には39軒で、総数の四分の一が上海にあった。
1920-30年代、映画が全国を一世風靡し、ハイクオリティな映画館(当時は大劇院と呼ばれた)の設立が必要不可欠になっていた。同時代に中国の初代建築家たちが欧米留学から帰国しており、その中の範文照や趙深が次世代映画館の設計という重責を命ぜられた。1930年3月26日、上海初の自国民が設計・設立した映画館が完成する。南京大劇院と命名されたこの映画館は、建物自体も導入設備も最先端のものだった。当時、アメリカ最も設備の整った映画館にロキシーがあり、アメリカの「ニューヨークタイムズ・上海通信」はこの南京大劇院を「アジアのロキシー」と称えている。
こけらおとしの日、南京大劇院ではユニバーサルフィルムのミュージカル映画「ブロードウェイ」を上映。アメリカのMGM社とフォックス社の新作独占放映権を勝ち取った優勢も手伝い、数ヶ月連続で連日満員という大記録を打ち立てた。1932年12月には、初の国産映画「銀河双星」を放映した。
南京大劇院では映画上映の他、芝居やコンサートの公演も行われた。1932年以後、工部局交響楽団の夏季コンサートがこのホールの定期演目になり、1946年4~5月には梅蘭芳が団員を引き連れて13日間公演し、大盛況を収めている。
1949年以後、北京電影院と改名。その頃の上海には音楽公演専門のホールは存在していなかった。1959年第一回「上海の春」コンサートを開催することになり、専門家たちの検討の結果、このホールが最適だと決定される。それ以後、昔の大劇院は今日のコンサートホールへと変身した。
1960年5月、第一回「上海の春」ミュージック&ダンスフェスティバルが北京電影院で開催され、その後、毎年恒例になった。そしてこの建て物は上海の音楽の殿堂として君臨し続けている。
【建物】
上海音楽庁の風格は、シンプルかつ整然とした新古典主義様式だ。四階建で一階は白色石を化粧貼りし、2階から4階は灰黄色のレンガ貼り、2,3階のファサードは両端にイオニア式の四分の一円形ピラスターを、その中に半円形のピラスター2本を建て、少し奥まった場所に逆U字型のフランス窓がピラスターを仕切りに3枚並んでいる。ピラスターの間にはベランダ風の手すりが設けられており、シンプルながらとても堂々している。階段を上ると6つの門、その中がエントランスホールだ。
ホールの床は白色大理石、中央はフローリングになっている。真っ白な壁は淡いブルーで縁取りしてある。エントランスホールの中で一番目を引くのは16本のピンク色で上部に金色の装飾が施してある大理石柱だ。
エントランスは吹き抜けになっていて、二階の四方を囲む歩廊に繋がる。天井は中国的な褐色の木組み格子西方に金色の花紋の石膏の吊り天井とを組み合わせていて、立体感に富んでいる。
【周辺紹介】
ホールの7号ゲートから入り、4階に上がればクラブ・上海(漾楽会)というフレンチ・レストランがある。中国語名の「漾楽会」という名は「漾漾と音楽を楽しむ会所」とでも解釈しようか、まさにコンサートホールの中のレストランに相応しいネーミングだ。インテリアはフランスのお城のようで、気品が漂っている。メニューの更新ペースが速いことでも定評があるとか。
西蔵路を渡って一本目の交差点を曲がるとかの有名な雲南南路美食街だ。「鮮得来」の排骨餅、「小紹興」の白斬鶏、「燕雲楼」「小金陵」の塩水鴨など上海人おなじみの庶民派レストランが勢ぞろいしている。普安路には霓虹児童広場があり、ベビーフードに子供服、思っちゃに記念写真館など、子供関連のあらゆる物が揃っている。上海の若い母親上海歴の長い外国人などの御用達の子供用品デパートだ。