中共一大会址は新天地に隣接しており、外観も新天地と一体として残さされている。同じような灰色と赤のレンガの壁、同じような半円形のドア飾り、小さな中庭ーかつて目にしたオールド上海の写真そのままの姿だ。だが、この建物から発する心象風景には、新天地の持つ雰囲気とは別とはまた違う、この国の礎を作った場所に相応しい威厳に満ちている。
【歴史】
中共一大会址とは1920年代当時の上海の上海フランス租界内にある望志路106号(現 興業路76号)で1921年7月23日夜8時から開かれた中国共産党第一回全国代表大会のことを指す。出席者は15名(うち2人はコミンテルン代表)。会議最終日に浙江嘉興南湖へと移動し、全議事日程を終了した。1949年に中華人民共和国が建国した後、毛沢東や董必武ら共産党上層協議の末、7月の第1日、つまり7月1日を中国共産党の誕生記念日として決定した。
興業路の旧名は1914年にフランス公董局のエンジニア長だったワンツの名前から「望志路」と名づけられた。中国一大会址の石庫門建築は1920年の初夏に落成。この隣接する2棟の建物は20世紀初頭の中国革命同盟会員だった李書城と弟漢俊の邸宅だった。1921年7月に中国共産党が正式にここで設立せれ、1920年に人民政府がこの建物を「中共一大会址記念館(中国共産党第一次全国代表大会跡記念館)」として一般開放を開始した。
【建物】
中共一大会址は典型的な上海石庫門建築だ。石庫門の起源は1860年、大平軍が東進をはじめたため、江蘇南部や・浙江北部から1万人以上の避難民が上海租界へと流れ込んできた。租界は難民受け入れのために商売人たちに投資させ、住宅を建造し、土地を無駄なく使うべく、難民用住宅の殆どは集合住宅タイプの石庫門里弄住宅が建てられた。
なぜ「石庫門」という呼称がついたのだろう。このタイプの建造物の正門は、門の枠が石で出来ており、ドアは漆塗りの分厚い一枚床を用いている。束をハチマキ状の巻きつけることを中国語で「箍」と言い、発音は「グー」と読む。門に石が巻きついたデザインなので、この建造物は「石箍門(シーグーメン)」と名付けられたが、年月を経て訛りが入ったのだろう、いつしか「石庫門(シーグーメン)」という名に定着した。
石庫門の全体的な構造はヨーロッパの集合住宅を参考にしているが、内部は中国の四合院が基盤になっている。とは言え、四合院は出入り口が多く、階層は少なく、平面的に広がった造りなのに対し、石庫門は出入り口が少なく、階層が多いので、土地空間を最大限に利用できる。石庫門の玄関は独特で、門の枠の上にアーチ型の飾りが付いている。浮き彫りされた模様は盾をモチーフにした西洋の家紋にそっくりだが、その上についている曲線の模様は中国の伝統的な雲紋に花は梅に見える。これこそ中洋折衷のデザインと言えよう。興業路76号のドアから中に入り、セキュリティチェックを抜ければすぐ正面ホールがあり、2階は展覧室だ。第一回大会は実は隣の建物で開催された。会議室はおよそ20平方mほどで、真っ白な壁と朱色の床、ドアと窓は同じ色に塗装されている。市内は当時の様子が再現されており、真ん中に面白いテーブルクロスをかけた長方形の会議机があり、卓上には湯のみとマッチ入れ、机の周りには12脚の丸い腰掛けがあり、東西両側の壁に沿い、それぞれ茶卓が1台と椅子が2脚ずつ置かれている。説明が無ければ、昔の上海の一般家庭と大して違わない。外に出て出口を見上げると屋根つきの門の屋根に「樹徳里」の三文字が記されている。これも典型的な上海横町の特徴だ。
【周辺紹介】
中共一大会址を参観したら、太平橋緑地に出て新鮮な空気を体いっぱい深呼吸しよう。緑地の中央に上海市最大の人工湖があり、その真ん中には大きな噴水がる。緑地の北側には前兆1200メートルの湖畔道路の散策は、真夏でも涼が取れてリフレッシュできる。湖の東西両端には玉蘭島と合歓島という小さな島が浮かんでおり、正に高層ビルと繁華街の中のオアシスだ。
湖畔べりにある「88新天地」はシノワズリなブティックホテル。抜群のロケーションを誇り、53ある部屋はまるで上海人の家庭にお邪魔したかのよう。窓を開ければきらめく水面と緑が、窓を閉めれば都会の雑踏から抜け出せる。