毎週日曜日にはいつも大勢の人が国際礼拝堂に礼拝に来る。中国人もいれば外国人もいる。礼拝堂内に収まりきらず、周りの芝生に座っている人もいる。だがこれほど多くの人がいるにも関わらず、喧騒は一切ない。信者であろうと無かろうと、この年中ツタに覆われた建物は人々に心の美しさと安らぎを与えてくれる。これこそが、創始者の願いだろう。
【歴史】
上海開港後、プロテスタントの布教活動が活発に、広い範囲なったものの、居留外国人たちが肝心の宗教活動を行なう集会所が絶対的に欠乏していた。1917年ごろ、上海在住のアメリカ人たちがある夫婦の家に集まるようになった。彼らは小さいな聖歌隊を結成し、定期的に賛美歌を合唱することで礼拝していた。1920年いつしかその人数が数百人にまでなり、、個人宅で集会は限界になり、同年9月、信者たちの寄付により杜美路ルート・ドウメールに小さな礼拝堂が完成した。現在、そこには東湖電影院がある。礼拝堂が完成すると入会希望者は更に増え、すぐにここも満員になってしまった。1923年上海アメリカンスクールの援助で貝当路ペイティエン・アベニュー(現・衡山路53号)の同校の11畝の土地を購入した。1925年3月に礼拝堂が落成。
コミュニティ・チャーチ協和礼拝堂と名づけられた。その頃の牧師はアメリカンやイギリス国籍の人が主だったが、太平洋戦争がぼっぱつし、非中国人の牧師や職員に災いが及ぶようになったため、中国人が牧師職を担当するようになった。
だが、礼拝堂内の公用語は英語のままだった。1950年礼拝堂の理事会理事も中国人が担当するようになり、その後は礼拝も中国語で行なわれるようになった。礼拝堂誕生のきっかけが聖歌隊結成だからだろうか、国際礼拝堂のクリスマス礼拝は、上海きの子供たちは、こっそりと礼拝堂は新たに聖歌隊を再編成した。それからというものの、清らかな調べに吸い寄せられるかのように、礼拝堂でのイベントには非信者の上海人もこぞって参加するようになっている。
【建物】
外観はゴージャスとは言いがたく、体積も多きくはない。国際礼拝堂を見て抱く印象はシンプルでバランスが良いということか。イギリスやアメリカの農村型民家を大きくしたようにも見える。教会にありがちな塔も無く、逆U字型の木造屋根のしたに赤レンガの外壁、長方形の堂内ー素人でも描けるシンプルな形だ。木材が支える屋根の傾斜角は大きく、屋根のところどころには石瓦敷かれている。夏になると幾重にもからまったツタが壁を這い、屋根へと伸びて教会を覆いつくす。その姿は童話にでくる大樹の家のようである。
教会の屋根は外から見ればスロープ型だが、内側はアーチ型だ。ホールの両側に沿って鋭角に湾曲したフレームが屋根を支え、吹き抜けになった二階は左右の壁に沿って座席が用意される。ホールの南中央が主祭壇で、祭壇の上にも屋根を支えるアーチ型のフレームが渡っている。これは典型的なゴシック様式の建築法だ。
アーチ型の天井はさして高くも無ければものすごくとがっている訳でもない。素朴で柔らかな印象を与え、一般的なゴシック様式で見られる。「券飾」もシンプルに抑えられており、アメリカの現代建築様式のようなシンプルさが垣間見える。
礼拝堂の外の歩道には灰色のテラゾガ敷かれているが、中は細い板を張り巡らせた木床。床板と明るいオレンジ色の壁、褐色の化粧腰板との組み合わせは温かみがあり、親近感が持てる。ベンチも木製で、背もたれの後ろには聖書を入れられるように小さいな棚が付いている。金色の光が祭壇の後ろにある大きな縦長の氷お菓子模様のガラスから差し込む様をベンチに座って眺めると、色々と人生について考えさせられてしまう。キリスト像も壁画もモザイクも教会らしい装飾もここには無いが、それが逆によりいっそう人々の心の中を輝かせてくれるのかも知れない。
【周辺紹介】
国際礼拝堂がある衡山路の散策は満足度が満点。もう少し欲張れるなら周辺の高安路や永嘉路にも行ってみよう。
高安路にある高安路にある高安路第一小学はNBAプレーシャー姚明の母校。同じ通りにある図安蟹味館は有名な上海蟹料理を得意としたレストランで、色々な蟹料理が楽しめる。
永嘉路385~389号はかつて金融界に名を馳せた、国民堂孔祥煕財政部の邸宅だ。現在は「点石斎小宴」という中華料理レストランになっており、葱焼鮒魚、紅焼肉?卵が看板料理だ。道路を狭んで向かいにある335の建物「客堂間」というブティックホテル。様々なアンティークグッズが飾られており、客室は計七間、アールデコ風で心地よい。一階には創作東南アジア料理レストランがあり、スパイスを利かせた料理が人気だ。