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三国故都-許昌
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(1票) 更新日:2019年05月16日

許昌は河南省の中南部にあり、後漢の末期、三国時代に後漢の都であった。曹操の魏国の最初の都は鄴城(今の邯鄲)にあり、後に曹操は後漢の皇帝漢献帝を許昌に住まさせて、天子を挟んで諸侯を命令した。許昌は後漢の都になった。その後、漢献帝が皇位を曹操の息子曹丕に禅譲して、魏王朝に入った。

今許昌にある三国時代に関する名勝春秋台、覇陵橋、曹宰相府、漢魏許都遺跡などが数多く残されている。







春秋楼は、関羽をなんとかして自分に仕えさせたいと思っていた曹操が関羽に与えた邸宅である。今は関羽を祭っているお寺になっている。関羽は三国志の登場人物というだけではなく、中国では財神として祀られている。二人の妻を置いたまま逃げた義兄にかわって、関羽は兄嫁ふたりを守り、曹操に与えられた邸宅の奥、つまりいい部屋に兄嫁二人を住まわせ、自分は外側の部屋に住み、愛読書の「春秋(左氏伝)」を読みふけっていた。元代の1231年に建設が始まり、その後、明清代を通して何度も修復されたので、とにかく広くて立派。一層、二層、三層と奥に行くほど建物が大きくなる。元々はそう大きくない邸宅だったはずでがが、中国では人気のある関羽を祭っているので、 どんどん大きくなっていったのでしょう。





許昌東南部の繁城にある受禅台遺跡 西暦220年、曹丕が後漢の献帝より禅譲を受け、皇帝に即位した場所。許昌市街地より約20kmの、臨頴県にある。かなり農地に埋没しかけてる雰囲気。





徐晃墓 徐晃、字は公明という。三国時代魏国の名将だ。曹丕の魏帝時代に右将軍になった。お墓は許昌の東北部にあり、三国漢魏許昌古城遺跡の近くにある。







漢魏許都故城遺跡 許昌の東北部の畑にある。今主な建築遺跡は毓秀台である。毓秀台は建安3年(198年)、曹操が後漢の献帝のために造った祭壇。献帝は毎年秋分にここで天に祈りをささげたそう。畑の中にぽつんと高台。台上には天爺廟がる。







「覇陵橋」関羽が曹操に別れを告げた場所。行方不明になった劉備捜索の旅「千里走単騎」は京劇や映画の題材になっている。今きれいに整備された公園になっている。関羽がいたときの地名は「許」。曹丕が皇帝に即位して、名を「許昌」とあらためた。



三国故都は上記をご紹介した歴史名所だけではなく、また多い観光名所がありますので、興味のあるお客様がぜひお足を運んでください。



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