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2千数百年前の人々との出会い ・ 「兵馬俑」
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(13票) 更新日:2014年03月20日

蘭州から桂林への帰途、乗換えを利用して西安の「兵馬俑」の見学へ行く。 これまで、テレビの映像や写真ではいくたびも目にしたことがあり、一度は実際に見てみたいと願っていたので、心ときぬく想いである。 始皇帝陵の地に立ってみると、その規模は想像を遥かに越える壮大なものであり、全体像は、未だ想像の域内であり、全容の解明は何時になるのかさえ不明であることが驚きであった。


ニ−ハオ!ようこそ~チャイナエイトへ~!



始皇帝は、紀元前259年~紀元前210年の49歳の生涯である。



中国戦国時代紀元前246年13歳で秦王に就き、紀元前221年列国を平定し、38歳にして中国統一を成し遂げ、自らを皇帝と称し、中国最初の皇帝として49歳で死去するまで君臨した。



 



この秦始皇帝陵は自らの指揮の下に、死後の世界においても、皇帝としての体面と尊厳を保ち続けられるよう、数十年の歳月を費やして造営されたものである。



撮影日:2014年02月16日



撮影場所:陝西省西安市臨潼区 秦始皇兵馬俑博物館



 



2月16日(日)朝10時前西安駅に着く、大都市であり、世界の有名観光地でもあり、さらに乗換の主要駅でもある駅頭は、大勢の行き交う人々で雑踏している。



小雪舞う駅前に、6~7mの高さのある長い壁のような城壁のモニュメントが立ち塞がるように遮っている。 それを潜り抜けた先に街の大通りが広がっている。



駅側も街の方も見渡すかぎりの人波である。



 



駅で荷物を預け、直ちに始皇帝陵行のバスに乗る。10時18分バスは駅前を出発し、みぞれ混りの小雪でかすむ街中を走り抜け、郊外の陵へ約50分で着く。このバスは暖房もよくきいた観光バスタイプのクッションの好いバスで、駅前から直接利用でき、個人旅行者にはとても利便の好い乗物であり、往きは915番8元、帰りは914番9元と料金も格安である。



 



表通の車道から奥へ長く延びる歩道が続いており、日本の有名寺社仏閣への参道と同じように、両側はおみやげ屋と食べ物の店で埋め尽くされている。観光客の少ない小雪降るオフシーズンの通りを抜け博物院のゲートへ着く。中は公園のように整備された広大な敷地になっている。



 





ぼーっと薄くかすんで見える景色の中、多くの木立の中へ通じる路を伝い奥へ進むと、巨大な第一坑の博物館が現れる。



 





縦230メートル横62メートルの巨大な土坑の上を、長方形に四方に本格的ビルの壁を建て、それを支えに柱一本ない大屋根で覆われた、巨大な体育館ともいえる驚くべき空間が展開されている。



並の体育館ならば、10館分に等しい広さが有りそうである。



 





大屋根の下に拡がる幾筋もの坑に並び立てられた士卒と軍馬の隊列から放たれる空気感は、本物のみが持つ存在感と2千数百年を経て、呼び覚まされた歴史の重みを伴った物の迫力とでもいえる、見る者に対しズズンと押し寄せてくる大波のような力を持って迫ってくる。



暫し呆然と立ち尽くす、 胸の高鳴りを覚える。  唯々 見入られ時を忘れる……



 





この広大空間は、前方は修復を完了した士卒と軍馬の数百体もの隊列の展示場であり、中ほどは固い粘土状の黄土に蔽われた地面が大きく広がる保存場所であり発堀現場でもある。一番後方は修復場所となっている。



この博物館は、発堀現場であり、展示場であり、修復現場であり、更に保存の場所でもありと、複合的な役割を果たし、一般的な博物館の存在を越えた場所となっている。



 





修復現場に並び立つ数十体の士卒の隊列は、大屋根の明り取りの窓から漏れるか細い光と、黄土の上を這うように漂う霧の中から、今にも動き出しそうに迫ってくる。



 





始皇帝は統一後、重臣の李斯と共に貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定、法による統治を行ったりと、近代国家としての礎になる基本的制度を全国的規模で行った。



その反面、多大な人民の苦役と犠牲の上に推し進められた、国家的巨大プロジェクトである。万里の長城の建設に、この等身大の兵馬俑で有名な秦始皇帝陵の建設も行った。



秦王に即位した翌年の紀元前247年、14歳にして陵墓の建設に着手している。



この年令にして、自らの死後の準備を始めているのは驚きである。



我々凡人には全く理解の及ばないことであります。



 





又、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の刑を行ったことでもよく知られています。



これは、紀元前213年、医薬・農業・卜筮(ぼくぜい)〔注:卜法は亀甲を焼いて、筮法は筮竹(ぜいちく)を用いての占い〕などの実用書以外の書を全て集めて焼き捨て、数百人の儒者を捕えて翌年咸陽で坑(あな)に生埋めに処した事件である。



 





第2坑は第1の約3分之1、第3坑は約4分之1程の大きさであり、第2・3坑の博物館は、展示場というよりは、殆ど黄土の地面が広がる保存場所に大きく占められている。



一部は発堀中で地面に倒れ臥したり、折り重なって破損したりの状態が見られる。



 





修復を終えた少数の俑が立てられているのみである。壁面の処々に展示されている発堀時の写真には、兵馬俑は色鮮やかに彩色されている様が写されているものの、土中から甦った俑は空気に触れると短時間にその色彩を失い、素焼の陶器の色になってしまうのである。



これらの問題を解決する技術が確立するまでは、早急に発堀を進めるわけにはいかないのだと思われます。



 





陵墓は、38歳で始皇帝に就いた後、規模は格段に拡大され、木材や石材は遠くからも運ばれ、地下水脈に達するまで深く掘られた陵の周囲は銅で固められ、その中に宮殿や楼観が造られ、さらに侵入者を防ぐ水銀が流れる川は100本も作られている上に、侵入者を撃つ石弓も据えられているという。



豪華な財宝や珍品の品々が納められ、生前と同様の生活を死後も送れるように、官臣たちの俑も造られ、それらの壮麗な宮殿と始皇帝の死後の世界を守る為に、当時の生身の軍隊・軍馬を生き写しに作製されたのがこの兵馬俑であります。



 





1974年3月29日、農業用の井戸を畑に掘っていた農夫により兵馬俑の一部が掘り出され、世紀の大ニュースになりました。



1979年10月1日、秦始皇帝陵博物院は公開展示が開始され、35年余になる現在でも、副葬品の一部に過ぎない兵馬俑の一部のみの展示が行われているに過ぎません。



それでさえ、我々の常識では驚くべき広さであるも、この巨大陵墓の全体像からすれば、ほんの入口に手を掛けたに過ぎません。



近年、考古学者により墓の位置が特定され、探針を用いて調査された際、自然界の約100倍の濃度の水銀の存在を確認したとのことです。



今まで、始皇帝の陵墓に纏わるさまざまな話は、伝説扱いされていたものの、現在では、ここに壮大で荘厳な宮殿が眠っていると確信されています。



 





余りに巨大なこの陵墓の全容を、現在地球上に生存している大部分の人々にとって、目にすることは不可能と想像できます。



早くとも21世紀末、恐らくは22世紀にならねば、全体像は解明されないのだと推量されます。



 





広い広い館内を歩き疲れ、2千数百年の歴史に満ちた気に圧倒された体で外に出ると、



暗い天から休みなく舞う小雪に、園内の林の木々は白く化粧されていてほっとする。



 



今や年間百十万もの人々が訪れる「兵馬俑」は、見る者全の人々に胸一杯の満ち足りた想いを与えてくれる、歴史と向き合える貴重な地となっている。



 



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世界遺産秦始皇帝陵・兵馬俑坑と華清池を訪れる旅



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